横浜地方裁判所について
横浜地方裁判所について
関東大震災で倒壊した横浜地方裁判所が、戦前の横浜を代表する洋風建築物として生まれ変わるのは、1929年(昭和4年)のことである。その前年に日本で初めて陪審法が施行され横浜地裁内にも広さ約200㎡の特号法廷(陪審法廷)が設置された。鉄筋4階建ての2階に特設されたこの法廷は、柔らかな線とシンプルなデザインが特徴で、場内には厳かな雰囲気が醸し出されていた。
だが、期待を担って始まった日本の陪審制度も、制度上の欠陥や法曹界の消極姿勢、市民よりも職業裁判官を信頼する国民性などから、日本の風土になじまないとされ、施行から15年の1943年(昭和18年)、早くも制度停止となっている。
横浜地裁の置く特号法廷で行われた陪審裁判は、わずか11件であった。
陪審法廷はその後、予期せぬ時代の流れから、一躍歴史の表舞台に登場し、世界から注目を浴びることになるのである。
陪審法廷について
陪審法廷について
陪審法廷、昭和3年10月1日の「陪審法」施行(大正12年公布)にあわせて、日本全国で71設置されました。
この横浜地方裁判所陪審法廷は現存する2つの陪審法廷の1つです(いまひとつは京都)。
陪審法は、人権擁護のために国民の司法参加を実現するべきという政党(政友会)の主張や大正デモクラシーを背景に、「素人の国民が陪審員として犯罪事実の有無を評議し、裁判所に答申する」という役割をもつ、国民参加の裁判を定めたものです。
横浜地方裁判所陪審法廷は、法施行に少し後れ、昭和5年に完成しました。関東大震災(大正12年9月)の復興事業の一つに指定されて造られたものです。法廷は、広さ約200m²、天井までの高さが約5.4mあり、当時、東洋随一と言われました。
陪審裁判は、制度発足当初はともかく、10年も経たないうちにほとんど利用されなくなりました。
この横浜の陪審法廷で陪審の評議に付された事件数もわずかでした。陪審法は昭和18年に停止されましたが、それよりも前からこの法廷が内外の注目を浴びることになります。それは、昭和20年12月のことです。第二次世界大戦が終わり、占領下、横浜地方裁判所は連合国に接収され、アメリカ陸軍第8軍の軍事委員会が俘虜虐待など戦時国際法や戦争法規違反の戦争犯罪被告人を裁くためにこの陪審法廷を軍事法廷として使用することになったからです。
桐蔭学園は、このようないわば歴史の証人ともいうことのできる横浜地方裁判所陪審法廷を貴重な歴史遺産として移築復元することが総合的教育・研究機関を擁する本学園の公共的使命であると決意し、「法と裁判」、そして「正義」「自由」「連帯」「民主制」「戦争と平和」「人間の尊厳」に考えをめぐらす契機となることができるよう、この陪審法廷を広く一般に公開するものです。
学校法人 桐蔭学園
鵜川 昇
移築復元にあたって
移築復元にあたって
この法廷は、陪審法廷の時代(昭和5年から法停止の昭和18年まで)、軍事法廷の時代(昭和20年から昭和24年まで)、そして解体前までの特号法廷の時代(昭和25年から平成10年まで)と三つに分けることができます。移築復元にあたって、その復元基準を創建時点の陪審法廷としました。
復元の作業は困難をきわめました。陪審法廷から軍事法廷への改造、さらに戦後の陪審制度に適合する法廷へと形を変えてきたからです。
したがって創建当時の横浜地方裁判所の陪審法廷がいったいどのような構造になっていたか、その判断になる資料を収集することが課題になりました。幸い、最高裁判所をはじめとし関係各方面の協力を得ることができ、法廷内部については完璧に移築復元を行うことができました(ただし、木柵で囲むようにあったといわれる被告人席は、資料が不十分なため、復元は行うことができません。)
陪審法廷時代
復元したのは陪審法廷です
軍事法廷時代初期
軍事裁判の開始当時の法廷です
特号法廷時代
通常の民事・刑事の裁判を行った法廷です